ANSINのAfford

松原 厚(京都大学 大学院工学研究科 マイクロエンジニアリング専攻 教授)

この話がどこに行くかはちょっと予想がつかないが、ジェームズ J. ギブソンが提唱したアフォーダンス(Affordance)の観点から、「病院のデザイン」と「ANSHINプロジェクト」を考えてみる。その定義、”An affordance is a property of an object, or an environment, which allows an individual to perform an action” の “action” の部分から考えてみると、”手術をするか否か”、“入院するか通院するか”、“薬を飲むか?”といった項目が思い浮かぶ。そして、その行動をaffordするものは何かと考えると、それは施術に対する治癒もしくは進行鈍化の予測確率が思い浮かぶ。しかし、実際に行動を決めるとなると、人間の生き物としての共通目的である生きる時間を最大にすることとは違った”なにか”がせめぎあうことは、誰しも経験することであろう。例えば、高齢者が足を骨折した際、手術は安全ではないとして、そのまま歩けない状態にしておくのか? 病院が安全だからといって、そこで生活を続けたいか? ここでいう安全とは、治癒確率の高さ、もしくは最悪の状態の回避確率の高さをいっているが、これはある治療に関するある病状の変化をマッピングしたにすぎず、その安全が個々のactionをaffordするとは限らない。

ギブソンが述べている、環境に対して人間が生き物としてperform an actionという部分については、もっと広い意味がある。それは、目的で論理的(実は理由は後付けが多い)に説明される”行動”とは異なるものであり、環境に対して自然に発動する何かである。これは日本語では”ふるまい”という言葉がしっくりする。もちろん、医療技術の進化は、人間らしくふるまえる機会も多く与えるわけで、その必要性は疑う余地はない。しかし、医療技術は、将来を生きるという願望(それはお金のように腐らない価値に属するものであるが)も同時に扱っているため、私たちは混乱してしまう。

環境と人の関係を編み直す

例えば、履修生のあるグループは「自分が理解していない治療を受けて、予期しない結果があらわれた場合の患者の当惑」を紙芝居で描いていた。これは誰しもが患者として経験するものであろう。医療技術の高度化は、ある症状が難解で多重的なことを明らかにする一方で、その理解には高度な知識と経験を要求する。患者にとっては理解不能なのだが、病院へ行く目的の第1が機能回復や生きることの延長であるので、専門家の安全の判断にしたがって行動し、”当惑する”、”話しつづける”、”ごねる”といった患者側にあるふるまいや心の動き=安心=ANSHINを自分自身(もしくは家族)で見ないようにする。富田教授があえてANSHINというローマ字を使ったのは、安全と安心は根本的に違うのに、混同する傾向があるからであろう。これは病院のみならず、高度な技術をとりこんでつくった環境と人間に起こる持つ共通の現象である。履修生たちが模索したのは、そういった高度に複雑化された病院という環境が患者にaffordするものはいったい何なのかということである。

例えば、子どもを対象としたチームは、子どもが生き物らしくふるまうことが病院では著しく制限されることに着眼し、“あそぶ”といったふるまい、“恐怖”といった心の動きをテーマにしている。先に述べた、診断と施術の理解を扱ったチームでは、患者の認識の世界からみた医師の説明と電子カルテの連動を扱っており、“つながる”というふるまい、“打ち解ける”といった心の動きをテーマにしている。病院の図書館を提案したチームは、居場所という切り口を扱っていたが、“さがす”というふるまいとのつながりを含んでおり、様々な発展を予感する。

履修生の観察とふるまいにより、環境と人との関係性に新たな切り口が見え隠れする。そういった状況を少々強引にまとめておく。技術によって変容していく環境が生き物としてふるまう人間にとってAffordanceを失わないようにすること、それがおそらくANSHINプロジェクトの一つの目的である。

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