”ANSHIN”をみまもるしくみ Since it is beautiful,it is truly useful
富田 直秀(京都大学 大学院工学研究科 教授)
”ANSHIN”とは芸術活動なのだと、私は思っています。けれども、みなが同一の芸術的価値を共有するとそれは一種の宗教になってしまいますので、関わる人それぞれの”ANSHIN”はそれぞれ多様であって、しかも無目的であること、それが私たちの挑戦の最も難しいところではないかと考えています。
たとえば、安全は多くの人が共通に持つ願いですが、”ANSHIN”は、それぞれがそれぞれの価値観と形式に則って行う一種の祈りのようなものです。それは、日本画家の村上華岳が「画論」の中で「制作は密室の祈り」であると述べたように、”ANSHIN”も「わたし」という密室の中でそれぞれに祈られる芸術のような対象なのだろうと思います。また、詩人の吉本隆明は「良い文学作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、自分にしかわからない、とそれぞれの読者に思わせる、そんな作品だ」と述べています。もし良い”ANSHIN”といったものがあるのだとすれば、それは安全性のように、または宗教の教義のように多くの人に共通に理解されるのではなく、それぞれの「わたし」にとっての”ANSHIN”が異なる他の”ANSHIN”と偶然の出会うようにして、多様性を保ったまま、多くの人の間に広がっていくような、そんなものなのだろうと想像しています。誰かが定義した「安心」でも「あんしん」でもなく、あなただけの”ANSHIN”であることがまず出発点です。
芸術か、よくわからんな、と思う人もおられるかもしれません。自分だけの”ANSHIN”であればそれはどこか自己満足的で、たとえば、いざ自分や家族が病気に罹患するような現実に直面すれば、科学的な治療が第一で、その後に考慮すべき内容のように思われるかもしれません。事実、私も家族の死の危機に直面した時には、たしかな知識と経験に裏付けられたより安全な治療を第一に求めました。多様ではなくしっかりとしたエビデンスが、そうして無目的ではなく治癒という目的に従ったしっかりとした行動が、医学の世界では求められています。
そうして、しっかりとしたエビデンスを基盤とした治療体系が整いつつある現在の医療においても、いや、そうであるからこそよけいに忘れてはいけないもう一つの視点があります。医療の世界では、エビデンスを基盤とした医学としての治療体系をEBM(Evidence Based Medicine)と呼ぶのに対して、患者それぞれの物語(Narrative)と対話に基づく医療をNBM(Narrative Based Medicine)と呼んでいます。EBMとNBMは対立するものではなく、たとえば紙の表裏のように、またたとえば演奏の技術と感性のように、互いに補完し合って医療という現場で患者それぞれに触れていく行動の支えとなっています。
多様な物語を「みまもる」
NBMの実践を参考に、私たちがこれから目指す”ANSHIN”の行動指針を一つだけ述べるとすれば、それは「みまもり」という言葉に集約されるのではないかと思います。それぞれの「わたし」の「したいこと」と「すべきこと」を自身で探し出すこと、つまりそれぞれの「わたし」を起点とした自己組織的な実践であるところに「質」を伴った技術が生まれますが、そのためには目的や基準に従った管理や指導のみではなく「みまもり」に徹する姿勢の存在が、”ANSHIN”実践の一つのバロメーターになるように思います。一つ注意しなければならないのは、自主性を尊重することと安全などの環境をしっかりと整えることとはまったく別であることです。「みまもる」ことが管理や指導よりもはるかに厳しい行動であることの自覚は必要であると思います。
実を申しますと、私はこの厳しさを理解していなかったおかげで、安全を脅かすミスを引き起こしてしまった経験が何度かあります。勝手な思い込みに走ってしまう危険性をそれぞれが自覚するような環境は(管理ではありませんが)、年長者がしっかりと整えなければならないと思います。そうして、もしミスが生じてしまった時には、それぞれが積極的に責任を負うことも”ANSHIN”のもう一つの実践かもしれません。安全への脅威に皆がそれぞれの立場で自主的に立ち向かう環境ができれば、”ANSHIN”は「安全性」に勝る信頼性を実現できるものと考えています。想定された有害事象に対する安全検討はもちろん必要ですが、現実において危険性は想定され得ないところにこそ生じ、また、安全検討が単に責任の押しつけ合いとなっている場合も多いことは理解しておかなければならないと思います。その意味で、”ANSHIN”は安全性よりも、より現実的であるといってもいいのかもしれません。
しつこいようですが、「みまもる」という明文化され難い行動は管理や指導とは比べ物にならない、鋭い予測能力と観察力を必要とします。しかし、それが達成し得ないほどに困難な作業なのか、といいますと、自然界では多くの生物が自然に行っている行動でもあります。「見守る」ではなく「みまもる」とひらがなで書きましたのは、機能などを客観的に「見る」ことと、それぞれの主体が出会って「みる」ことを区別しておきたかったからです。「みまもり」とはイキモノに共通した一種の芸術活動であって、その要点も多様性と無目的性にあるのだ、と私は感じているのですが、感じているだけで論理的にわかっているわけではありません。ただ、みまもる、みまもられるという行動が多様で無目的あるところにこそ美しさを感じます。兎にも角にも、現在までのところの”ANSHIN”プロジェクトが大きな失敗をせずに多様性を保持して続けられているのは、京都市芸大の辰巳明久先生と、京大経営管理大学院の山内裕先生の類まれな「みまもる」力に大きく依存していることは確かなようです。
「みまもる」とはそれぞれの人格を尊重する行為でもあります。本来は「密室の祈り」である”ANSHIN”を、社会に定着させるために、たとえば、私たちの活動で創りだされる商品やサービスの著作者人格権(人格的な権利や責任)、その中でも特に氏名表示権(創作者であることを主張する権利と責任)を発案者たちが積極的に担って、商品やサービスが育っていく過程を画像と名前入りで公開していく方法論も模索しています。またたとえば、著作者人格権のうち同一性保持権や名誉声望保持権(責任)はブランドを保持する法人などが、著作権などの財産的な権利と責任は実用化する企業などが担うことによって、それぞれが創造人格、同一性、利潤に関わるそれぞれの責任を積極的に担っていく、顔が見える”ANSHIN”ブランドの形成のしくみが一つの方法論として設定できるのかもしれません。
最後に副題名の”Since it is beautiful, it is truly useful”の説明を加えておきます。これは、サン=テグジュペリ(Antoine de Saint Exupéry)作の「星の王子様」(Le Petit Prince)の14章の中にある言葉の英語直訳です。1分間に1回転する小さな星の上で絶えず街灯をつけたり消したりしている点灯夫(lamplighter)の星をみて、星の王子様がつぶやいた以下の内容の部分からお借りしています。
「この点灯夫もおかしな星にすんでいるなあ。けれども、王さまや、うぬぼれ屋や、実業家や、のんべえの星よりは、なんとなくほっとする。この人の仕事には、なにか意味があるにちがいない。街灯に明かりをつけると、星がひとつ生まれたように、花が一輪ぱっと咲いたように見えるし、街灯の明かりを消すと、花や星は眠りについてしまう。ああ、なんてきれいんだろう。きれいだからこそ、ほんとうに役にたつ仕事なんだ。」
(富田の意訳)
”ANSHIN”プロジェクトに集まった学生たちの仕事は、それぞれの専門家から見ると、どこか自己満足的でそのままでは役に立たないように見えるのかもしれません。けれども、診察用の机にも、子供が一人で受診できる病院にも、ベッドサイドポシェットにも、弔いの道具にも、病院の図書館にも、子供の待合室にも……これらの実践に私は美しさを感じます。すでに王様や、うぬぼれ屋や、実業家や、のんべえの星の住人である我々の仕事は、この実践が他の多くの人のそれぞれの実践に広がっていくのをみまもる「しくみ」を作っていくことなのではないかと思います。