ANSHINのデザインに関するメモ
山内 裕(京都大学 経営管理大学院 講師)
我々は安全な食べ物、安全な商品、安全な乗り物、安全な医療を享受していると考えている。しかし、この安全という概念は何か? 電子カルテを開発している会社の方がおっしゃったこと。医師にとっての便利さだけではなく、本当のユーザである患者にとっての安全性を確保しないといけない。医師にとっての便利さとは、クリックの回数を減らすことであり、電子カルテが意図した通りに動作することである。患者にとっての安全性を確保するために、例えば何かをオーダーしたときに、確認ウィンドウを立ち上げて、医師がクリックしなければならないようにする、という。これによりこの電子カルテが安全であるということになる。当然ながらここで問題となるのは、確認ウィンドウを表示し、医師にクリックさせるという行為が、安全とどのように結びついているのかである。多くの場合、医師は確認ウィンドウが出てくることも知っていて、内容を見ずにクリックするだけになってしまう可能性は高い。実際に私がそれを観察したわけではないのでただの推論にすぎないが、ここで問題なのはそれが正しいか間違えているかではなく、この電子カルテの開発者が、この確認ウィンドウを出すことによりこの電子カルテが安全であるという言説である。
「安全」言説にひそむ言い訳
もう一歩踏み込んで考えると、この言説には一つのトリックがある。開発者にとっては確認ウィンドウを表示したことにより、電子カルテ自体は安全であり、もしそれでも間違えてオーダーをしてしまったら、医師の責任であるという主張ができるという点である。この開発者にとっては、自分の責任の範囲で、安全を実現したと主張できる。さらに興味深いのは、もう一つのトリックである。この言説は責任を医師に押し付けるだけではなく、患者のためという筋書により、もう一段階自らの身を引く。つまり、この言説の正当性を、開発者自らの責任回避を目的とするのではなく、患者の安全性のためという問題に求めているからである。患者の声であり、開発者の主張ではない。ここで見てとれるのは、自らをこの言説の外に置くという行為である。自らの主体性を締め出すことで、デザインを自らとは区別した客体として、一つの実体のあるシステムとみなすことである。
一方で医師の側にも、患者の側にも、同様の言説が成り立つ。問題が起こったときに、医師はそれを患者のためにしたという言説を取りうるし、あるいは法律の制約や技術的な限界にその原因を置く。つまり、医師は自分にはそれしかできなかったという。一方で、実は患者の言説が最も曲者かもしれない。自分が医療の専門知識がない、専門用語で説明されてもわからない、病院に全部任せているという言説である。安全性という神話は虚偽ではない。我々自身が神話を求めている。それは、何かの安全性に問題があると、すぐに患者として、消費者として、ユーザとして、安全性を問題としそれを要求する。このように、関与するすべての人が、自らの主体性を自らの言説から締め出すことが可能である。端的に、安全とは、このような動きによって成立する、誰もその責任を取らない巨大なゴミ溜めのようなものである。
ここで私は責任を回避する誰かを告発することを目的としていないし、そうすることは自ら安全性という神話に加担し、同様にゴミ溜めを作ってしまう危険性をかかえている。ここでの目的は、誰かに責任があるということを主張するのではなく、その問題をそのままとらえることである。問題はそれぞれのステークホルダーが安全性という神話を現実であると取り違え、それを目指すことを自らに課していることである。つまり、これらの人々は真摯に安全性を実現しようとしているのである。そして、それを真摯に実現しようとすればするほど、ゴミ溜めを巨大化させていくのである。これは一度始まると逃れることはできない鉄の檻となる。それぞれの行為者にとっては選択肢はない。
安全・安心の不可能性
安全性とは何か? それは、何かが安全であると根拠を持って主張することができるシステムを構築することである。何かを安全であると主張するために、その根拠を構築する。確認ウィンドウを追加したから安全であるという言表は、開発者ができることの中で最大限の努力を払っているという意味で、ある全体性のシステムの中でのみ意味を持つ。つまりシステムとは、自ら設定した限られた選択空間であり、自分をその範囲に閉じ込めることでのみ、安全性を主張できる。それ以外の選択肢を排除することによって。それ以外の選択肢を考慮したオープンな選択空間を設定してしまうと、根拠が崩れてしまう。
ところが、安全性は不可能である――デリダ風に言うなら。なぜなら、安全性とは、予期しない問題が起こることを前提として、対象となる人工物が安全であるということを主張しているからである。予期しない問題を予期することはできない。何かをデザインしたとき、それがどのような影響を与えるのかを予期することは不可能である。特に、複雑な技術の場合そうであるが、単純なものでも一つの人工物を人が使う時点で、それが複雑な社会的・技術的環境に埋め込まれる。問題が起こってから予期できたに違いないという言説は、注意深く見る必要がある。たしかに、予期していたのにそれを隠すという場合もある。しかし、問題は、そもそも安全性という不可能性を可能であると信じたことであり、そこに目をつぶり誰かの責任を追い求めることは、自らその責任を回避する人と同様、自らの主体性を締め出した言説を作ることになりかねない。
安全と対比して、安心とは人々が感じるものであり、我々が目指すべき目標であるように見える。しかし、安心ということも一つの不可能性であることを看取する必要がある。安全が不可能である以上、安心するということも不可能である。ある人が安心したというとき、自らを偽っていると言える。仮想的に、医師に「大丈夫」と言ってもらって安心したというとき、この安心は最大限の虚構となる。ちなみに、当然ながら医師はそのようなことを言うことを避けるだろうが、それはその不可能性を理解して避けるのではなく、責任を取りたくないから避ける場合もあろう。安全の場合と同じように、ここから主体性が締め出される。患者や消費者は安全であると言われたので安心したということになり、安心という実体を信奉することで、安心の仮象を享受することができる。
ANSHINの実践とは何か
それでは我々には何ができるのか? 我々にできることは、安全の不可能性を理解し、安全の可能性がその不可能性を条件としていることを理解することだけである。言い換えれば、我々が目指すことができるのは、この不可能性に立ち向かい突破し、失敗することだけである。しかし、それは十分に価値のあることではないか。そしてこの突破を目指すことをANSHINのデザインと呼べないだろうか? このANSHINという言葉は、富田先生が医師として、医療技術開発者として、そして自らの家族が医療事故にあったという患者としての自らの経験をもとに、自らが目指すべきものを表現されたものである。
ANSHINを追い求めることは、安全という神話を実体と捉えることを拒否することである。つまり、ANSHINとは、安心という実体を脱中心化したものである――中心のある確固たる概念であるということを受け入れず、その不安定性や不可能性をそのまま理解し受け入れることである。ANSHINのデザインとは、あらゆる実体化・中心化を拒否し、自らの主体性に忠実であろうとする実践(practice)である。実践であるということは、常に生み出され続ける流動性である。そして、ANSHINの実践は、デザイナーだけのものではありえない。すべてのステークホルダーがそれを実践することが求められる。そして、デザインは作り出して終わらない。実践である以上、作り直し続けなければならない。作るものがステークホルダーの実践のネットワーク(あるいは織りなし/texture)である以上、デザイナーはその中に入り、その中から働き掛け続けなければならない。
一方、デザイナーの仕事は、実体を作ることである。デザイナーは形を作るし、グラフィックを作るし、技術を作るし、言葉で説明する。しかし、デザイナーが作るのは形であるが、一方でデザイナーが生み出すのは、ANSHINの実践でなければならない。ここで実践と実体が弁証法をなす。実体を通して実践が生み出され、実体は実践において意味を持つ。ここに絶対的な矛盾があり、この矛盾がデザインの原動力である。これは弁証法的関係であるが、我々はこれをある種の全体性へ止揚してはならない。この矛盾を矛盾として向き合い続けなければならない。
失敗するというのは、安全性を実体として作り上げることに失敗するという意味であり、あるデザインが社会的、あるいは商業的に成功するということはありうる。それを否定するものではないし、むしろ社会的な成功を目指すことは必要である。また、失敗することがわかっているからといって、そこを突破することを目指すことを止めることを示唆するものではない。不可能であることをあきらめず突破することの中に、我々の主体性がある。デザインとは不可能な将来に自分自身を開くことのできる勇気を持つことであろう。